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FIWC中国キャンプ10周年記念キャンプ 参加者募集中!!

FIWC関東委員会中国キャンプ10周年記念キャンプの
日程・詳細が決定しました。随時キャンパー募集中!!

日程:2013年7月14日(日) ~7月21日(日)
開催地:中国 呉川市土光村、潮州市嶺后村

詳細:2013年7月14日 東京発 広州着
        15日 広州発 呉川市土光村着
        16日
        17日 呉川市土光村発 広州着
        18日 広州発 潮州市嶺后村着
        19日
        20日 潮州市嶺后村発 広州着
        21日 広州発 東京着

全8日間の日程ですが、前半と後半に分けて、
2つの村でのワークキャンプを予定しているので、
どちらか1ヵ所の参加でも構いません。

ワーク内容等の詳細は後日更新していく予定です。

参加希望の方はもちろん、都合で参加できない方も
素敵な10周年キャンプになるよう、いろいろと
アイデア頂けると嬉しいです。

◆facebookページ◆
https://www.facebook.com/events/455695584524450/

◆お問い合わせはこちらまで◆
fiwc.china.camp@gmail.com
担当:トウ/内田/小田本 

質問などありましたらお気軽にお問い合わせください^^

たくさんのご連絡お待ちしております!

FIWC関東委員会中国キャンプ一同

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JIAの活動中に起きた事故について

JIAの活動中に起きた事故についてJIAの代表者原田燎太郎さんから連絡がありました。
ボランティアの事故に関する説明

JIAの活動中に起きた事故

原田燎太郎 2011年6月26日

6月5日、今日は端午の節句の三連休の中日だ。お昼にリンにカレーをつくってあげると、はしゃいでペロリと平らげ、お替りまでする。午後からは出産予定日を五日後に控えた潔珊(ジエシャン)を病院に連れて行き、恐らく出産前最後となる検査をする。長い検査を終え、四時半ごろ家にやっと帰ってくる。

と、小幺(シャオヤオ、顔循芳、JIAプロジェクト部責任者)が電話してくる。
「タイラン、」
今まで聴いたことがないような血の気のない彼女の声にドキリと心臓が一回鳴る。
「取り乱さずに聴いて。天等(広西壮族自治区)に村訪問に行ったキャンパーが危篤。救命措置を取っているところだけれど、もうたぶんダメだろうって…。いま家族が安徽省から飛行機で天等に向かっている」。

広西南寧のワーキングステーションで普段仕事をしている小幺と国献はいまちょうど湛江の孤島に出張中だ。僕が行くしかない。しかし、潔珊はもう今すぐに陣痛が来てもおかしくない状態だ。
「ちょっと考えて、すぐに電話する」。
電話を切り、家の外に出て、タバコを一本吸う。
(やっちまった…)。

数日前、広州のあるボランティア団体の代表が言った言葉が想い出される、
「今夏、60以上も活動があるって?1200名以上が参加するの?!事故が起こったらどうするの?全部お前の責任だぞ」。
(南寧に飛ぼう。)
まさかこんな汗臭い人間がJIAの代表だともいえないのでシャワーを浴びる用意―といっても着替えとタオルをつかむだけだが―をしながら、潔珊に頼んで飛行機のチケットを手配してもらう。潔珊が電話してチケットの情報を確認する間にシャワーを終え、出張用のバッグに一週間は滞在できる分の服とパソコンを突っ込み、一張羅を着込んで家を飛び出る。

その直前、潔珊のお腹に、
「瀟太郎、お前、まだ出てくるなよ。パパが帰ってきてから出てくるんだぞ」。
潔珊は僕の携帯の通話料をチャージするために近所の店に出かける。
小幺からメッセージが入る、
「タイラン、あのキャンパーは手術室で逝ってしまった。彼女の大学の先生がいま天等に向かってる」。
(…)。
JIA始まって以来の事故だ。

また小幺から、
「名前は王珺。女の子」。
(王珺…)。
脳みそがぐるぐる回るような感覚を受け、そして、想い出した。
(あの子だ!)
3月26日、JIA南寧委員会の代替わり大会があったあの日、いっしょに飲んで、南寧のワーキングステーションまでずっと話しながら来た子だ。彼女はあの日の翌日、メッセージをくれたはずだ。タクシーの中で携帯のメッセージを遡って行くと、それがあった。
「タイラン、広西民族大学カンボジア語専攻の小珺珺(シャオジュンジュン)だよ。午前中授業があって、みんながよく眠っているものだから、『不告而別』ね。タイランにあえてうれしかった。こんなにもたくさんの兄弟姉妹がいるし。みんなで一緒にがんばれば、『家』の未来はもっとよくなると信じてるO(∩_∩)O Joy In Action ^_^)Y」

あの、小珺珺が…。本当に「不告而別」になってしまったのか…?
いろいろと考え始める。あまり考えずにタクシーに飛び乗ったものの、そもそもどんな顔をしてご両親にあえばいいのだろう。聞けば、あやまったらそこで「組織としての責任」を認めたことになり、損害賠償請求につながるので、あやまってはいけないという。

ご両親は22時40分に南寧の空港につく。僕は彼らより30分早く到着する。どうやって言葉を交わせばいいのだろう。殴りかかられたら、かわさずに受け止めよう…。
賠償金を請求されたら、JIAに払うすべはない。
政府に知られ、政府が活動を禁止するかもしれない。
大学当局にも知られ、大学当局も活動を禁止するだろう。
JIAは活動ができなくなるかもしれない。
組織の存続さえも危うい。
僕は国外退去になるかもしれない。
そしたら、僕の家族はどうなるんだろう?
日本に僕と住むといっても、リンのおじいちゃん、おばあちゃんにはそれは無理だろう。
…。

例えば、リンが二十年後、事故で突然いなくなってしまったら、どう思うだろう?
それがキャンプ中だったら、それはやはりキャンプとキャンプの主催団体を責めるだろう。
考えれば考えるほど、頭がクラクラしてくる。飛行機が降下を始めるころ、僕の右耳は耳鳴りでほとんど音が聞こえなくなっていた。

夜22時過ぎの南寧空港のロビーで南寧のキャンパー・家庄、文算、丹丹と握手する僕の手は汗ですべる。JIAの協力団体で天等のNPOの責任者・馬克までも来てくれている。彼は友達に頼んで、ワゴン車を確保してくれていた。そして、ご両親の到着を待つ。
ロビーに出てくるひとり一人の顔を追う。涙を流していたり激情したりしている人はいない。

23時を回ったころ。と、後ろからご両親が現れる。
とても冷静な中に、ただならぬ気迫を感じる。
ワゴン車の中で、馬克がJIAの各人を紹介する。僕を紹介するとき、馬克は「JIAの発起人のタイラン」と紹介する。「責任者」といわれなかったことにほっとしている自分がいた。
紹介が終わるのを待ちかねていたようなお母さんは身を乗り出して馬克に訊く、
「で、うちの娘の状況はどうなの?!」
亡くなっていることは病院からご両親に伝わっているはずなのだが…。
馬克の表情が瞬時に固まると、お母さんは声を高くする、
「どうなの?!」
「いま、…、危険な状態です」。
お母さんはワッと泣き出す。お父さんが額に手を当てるのが、後ろから見える。
古いワゴン車が信号で停車してエンジンのすさまじい音が小さくなる度、お母さんの鳴き声が車内に響き渡る。

日付が変わり、2時ごろ。天等県人民医院に到着する。すぐに、天等の三合村に村訪問でいっていた南寧のキャンパーたちがお父さんとお母さんを取り囲むようにして左右から支える。泣き崩れるお母さんは病院の門の前にベンチに座り込み、動けない。涙を拭いて、肩を抱くキャンパーたち。お父さんは両手の人差し指をこめかみに当て、言葉を発さない。
王珺の大学の先生が旅館からやってきて、お父さんとお母さんに挨拶する。
蚊がいくら飛んできても、お母さんは動かず、ただ、ただ泣き続ける。
お父さんはタバコの量が増えてくる。
そのふたりを、キャンパーたちが声をかけ、さすりながら慰め続ける。
僕は、どうしたらいいのかわからない。
何の言葉をかけることもできない。
JIAの責任者が、声をかけていいものなのだろうか。
あやまることもできない。
ただ、ただ、直立してお父さんとお母さんの傍にいる。

意を決したお父さんは王珺にあいにいく。

帰ってきたお父さんは吹っ切れたように病院に足を踏み入れ、病院の事務所で担当医に言い始める。
「一刻も早く、王珺を南寧に連れて帰りたい」。
ここ天等の人々は家族の不幸に際しては遺体をすぐに病院の近くにある自分の家に連れて返るため、遺体を保存する設備がない。しかし、王君の家は安徽省だ。簡単に連れて帰るわけにはいかない。王珺は病院の後ろにある小さなセメントの小屋でセメントの台の上に横たえてあった。ハエが飛び交う中…。
「損害賠償を請求する気もないし、医療ミスを追及するつもりもない。とにかく、あんな状態で王珺を横たえて置くことには我慢がならない。一刻も早く救急車を出して、南寧の葬儀場に運んでくれ」。
「しかし、先ほどもご説明した通り、政府の定める所定の手続きをとっていただかないと許可することはできません。遺体の解剖をするかしないかについての書類にサインしてください。車もこんな夜中に出すわけにはいきません」。
「遺体をこれ以上傷つけたくないんだ。解剖は今はしたくない。ただ、いずれはするかもしれない」。
「しかし、書類には『する』か『しない』かでサインしていただかなくては困ります。そうでないと遺体を引き渡すことはできません」。
「とにかく、今すぐにでも南寧に連れて帰りたいんだ」。
お父さんと病院側は同じことを繰り返して主張する。時間が、とてつもなくゆっくりと過ぎていく。僕はひたすら両者の話を聴くことしかできない。
時間だけが過ぎていく。
お父さんは次第に激昂してくる。ドカンと両手を机に叩きつける、
「何で、連れて行かせてくれないんだ…。王珺をあんな状態でほっとくのか…。おれはあんたたちに対して何の要求もない。ただ、ただ、連れて行かせてくれ」。
「そう言われましても、政府の規定でして、私どももどうしようもございません」。
「それなら、院長を呼び出してくれ。直接話をする」。
「しかし、こんな夜中に院長に電話するわけにもいきません」。
押し問答の末、医師はようやく院長に電話する。院長が病院に来たのは明け方の4時ごろだ。この院長もしかし、「政府の規定で」を繰り返すのみだ。
最後は結局、遺体の解剖はしないということでお父さんがサインをし、王珺の遺体と共に救急車で南寧に出発することになった。出発の時間は、病院のスタッフが出勤する8時半になった。

医療費の支払いをお父さんにさせるわけにはいかない。僕らは広西民族大学の先生と話して、医療費を折半することにしていた。しかし、いざ支払いとなると、先生は「馬克にとりあえず払ってもらっておいてくれ」という。その態度は、大学側に支払う気持ちを微塵も感じさせないものだ。こんなところでもめているところをお父さんに見られたくないので、僕は自分で払う。医療費が1100元、王珺を南寧に連れて行く救急車代が1600元。
「カルテをコピーさせてほしい」。
そのお父さんの要求に、病院側はゆっくりと時間をかけてコピーし、コピーした紙に一枚一枚ハンコを押し、ある部分はコピーを渡さず、ここでもまたひともめもふたもめもする。

その間、天等三合村を管理する皮膚病予防治療医院(政府機関)の医師が病院にやってくる。あからさまに僕らに迷惑な眼を向け、何も話しかけてくれない。
そろそろ日が高くなってくる。もう10時だ。
やっと出発となり、僕らはお父さんと共に王珺が横たわる病院の後ろの小さな建物にいく。

王珺はビニールをかけられ、点滴の空きビニール袋に水を入れて凍らせたものをいくつか抱いている。解けた氷でびっしょりだ。医師が使い捨て手袋を何人かのキャンパーに渡す。僕はそれをはめるのに気が引け、素手で王珺を担架に移すのを手伝う。彼女のすねの表面は不思議にやわらかく、しかし芯は遺体の硬さだった。
2005年2月、桂林平山村で寥伯を棺おけに移したときの感触を思い出す。

お父さんはこの情景を正視できない。お母さんはここには連れてこられず、別の車で南寧に向かう。
救急車で、僕は王珺のすぐ傍のいちばん後ろの座席に座る。お父さんは王珺のすぐ前の座席だ。何度も、何度も王珺を振り返り、お父さんはひたすらこめかみに人差し指を当てている。今回の天等三合村の訪問の活動に一緒に参加していた大順は窓から外を呆然と見つめながら、目を赤くして涙を流している。

(もし、20年後、リンが死んだら、おれはどうなるだろう…)。
それを思うと、そして、それをいま経験しているお父さんを想うと、そのお父さんが王珺を振り返る様子を見ると、ぐぐっとこみ上げるものを抑えきることができない。
(今回の王珺のことは、あれは、事故だ。不可抗力だ)。
といってもどうしようもない。彼女は夜に石段から足を滑らせて2メートル転落し、頭を打った。即救急車で病院に運び、その夜と翌朝に検査するも異常なし。しかしその午後、容態が急変して、そのまま…。
事故だと思いたくても、お父さんやお母さんには、口が裂けてもそんなことはいえない。
(もっと、安全面を考えるべきだった…)。

JIAとして、リーダー研修は行っている。当然、安全面についても話している。2週間のワークキャンプでは保険にも加入している。村の状況に精通したキャンパーがリーダーを勤めている。南寧では応急処置の方法のトレーニングも行っている。しかし、2-3日の村訪問では保険加入を義務付けていなかった。安全を口ではいいつつも、僕は建設ワークの際、サンダルを履いていた。上半身は裸で、短パンでワークをしていた。JIAの責任者がこれでは、ダメだ。

5月のゴールデンウィークの被災地・唐桑キャンプではヘルメット、皮手袋、つなぎ、鉄板の入った靴が基本装備だった。夜22時には消灯だった。毎朝安全点呼をしていた。そのくらいの安全意識がないとダメだ。それをしていなかった…。

王珺を振り返るお父さんの表情が目に入るたび、自責の念と後悔にさいなまれていく。涙と嗚咽が、エンジン音にかき消される中、昨夜一睡もしていない僕は眠ってしまった。

僕らを乗せた救急車は午後14時ごろ、南寧の葬儀場につく。JIA南寧地区委員会のキャンパーが50名ほどすでに到着している。お母さんも先に到着していた。葬儀場が午後の仕事を始める14時半まで救急車は日陰に停まったままになる。
王珺ののった担架が救急車から降ろされる。初めて遺体を目にしたお母さんはキャンパーに両側から支えられて泣き叫び始める。
「王珺…、王珺…、王珺…」
遺体はロッカーのような金属の冷蔵庫に入れられる。

突然、雨が、降り始めた。

僕はそれまで、お父さん、お母さんに言葉をかけられなかった。中国のキャンパーたちは「気をしっかり保って」「がんばって」「私たちはあなたたちの子供だから」などと言葉をかけ続けているが、僕にはどうしてもそれができない。
お父さんがタバコを取り出す。僕は咄嗟に火を差し出す。それを受け、お父さんは僕にタバコをくれる。
「謝謝」。
お父さんが力なく僕にいう。
「なぜ『謝謝』なんですか…。僕は…」。
お父さんはみなまで言わせず、僕を座らせる。
涙がまたあふれてくる。何で、「ありがとう」なんだろう。涙がとまらない。
「もう、みんな帰ったほうがいい。特に王珺と一緒に天等にいっていたボランティアたちは2晩寝てないんだ。もう帰って休んだほうがいい」。
どこから、お父さんにそんな、他人に対する気遣いが生まれてくるのだろう。
キャンパーたちは帰らない。

16時、僕らはお父さんとお母さんのホテルをアレンジし、そこに向かうタクシーまで送っていく。ふたりのキャンパーがホテルまで一緒にタクシーで向かう。
そのタクシーを見送ると、南寧のキャンパー・文算は言う、
「タイラン、ワーキングステーションまでタクシーで行こう。おれが出すから」。
タクシーに乗り込むと、腹の底からため息が出る。

ワーキングステーションについて、ベランダでタバコをすっていると、文算がやってくる。
「文算、ありがとう。文算が昨日の夜、おれとお父さん、お母さんが天等にいく車をアレンジしてくれなかったら一大事だった。どうもありがとう。頼もしく成長したね」。
今夜、とりあえず広州に戻ろう。潔珊にはいつ陣痛が来てもおかしくない。でも、まずはお父さんに電話を一回してみよう。
一回目と二回目、彼は電話に出なかった。もう一度、本当にそろそろワーキングステーションを出発して広州に戻ろうと思っていた夜20時ごろ電話をかける。
「明日の朝8時、いろいろと今後のことを話し合おう」。
これで、広州に帰ることはできなくなった。妻のことが心配なのは当然だ。しかし、このような状況で帰るわけにはいかない。即、潔珊に電話し、今夜は帰らないと伝える。

明日、お父さんは、そして今晩到着するという親戚はどのような要求を僕らにしてくるのだろう。
考えても始まらない。
とにかく、寝よう。

翌朝、6月7日朝8時。僕はJIAのスタッフ・小幺、国献、阿三(林岳胤)、陳躍、インターンの李微微、南寧委員会の委員長・励文、文算と共にお父さんのホテルを訪れる。ホテルには王珺のおじさん2人が来ていた。
彼らはJIAについていろいろな質問をする。JIAの組織はどこに登録しているのか、国際組織なのか、それとも中国国内の団体なのか、企業なのか、非営利団体なのか。それぞれに一通り答えた後、おじさんが尋ねる、
「JIAは日ごろの活動に際して、どのような安全対策を採っているのか。実際に事故が起きたら、どのような対処をするのか決まっているのか」。
安全対策については先にも述べたことを話す。しかし、実際に事故が起きた際の対策というのは、キャンパーとオフィスのスタッフ、ご両親と連絡を緊密にすること以外には、保険に加入しているということくらいしかない。しかも、今回の2-3日の村訪問のような活動では保険にすら加入していない。

僕は答えに詰まる。沈黙が続く。
意を決して…、
「保険以外に…、事件後の対策は…これまで…特にありませんでした…」。
ふたりのおじさんは大きくため息をつく。お父さんは両のこめかみに人差し指を突き立て、涙を流す。お母さんは声を上げて泣き始める。
しかし、お父さんは何も言わず、話し始める、
「おれは君たちのJIAに対して何ら経済的な要求はしない。ただ、ただ、王珺の死を美しく飾ってほしい」。
そう前置きをしてお父さんは以下のことをJIAに対して希望する:
1.王珺の死をただの事故として扱うのではなく、最大限の栄誉を与えてほしいこと
2.告別式を主催してほしいこと(JIAもしくは広西民族大学)
3.お見舞金の支払い
お見舞金については、JIAの登録について尋ねられたときに、僕が「香港で社団法人登録、大陸では企業登録」と説明したため、「労災」として扱ってほしいということだ。とにかく、その場で結論を出すことはできないので、僕らは彼らの希望を持ち帰って話し合い、その夜に再びホテルを訪れて正式に返答するということになった。

僕らは会議後、即ワーキングステーションに戻り、緊急対策会議を開き、以下のようにすべきことを確認し、各自が即座に仕事にかかる:
1.栄誉
a)外部:広西民族大学、南寧青年志願者協会に働きかけること
b)内部:JIAニュースレター、証書の発行
2.告別式:告別式の計画書の作成
3.お見舞金:過去の事例を調べ、合理的な金額を算出すること
4.天等野村訪問を行ったキャンパーへの心理的ケア
5.安全管理マニュアルの見直し
6.対外連絡:政府、広西民族大学、JIA内部
まずは1-3について午後に計画を出し、夜にお父さんのホテルを訪れてその方向性を報告することになる。

ここから、怒涛の準備が始まる。それぞれのスタッフがそれぞれの分担した仕事をゴリゴリとこなしていく。スタッフの間には緊張とやる気が満ち溢れている。それが南寧のキャンパーたちや天等に王珺と行ったキャンパーたちに伝染していく。彼らには広西民族大学から事故の詳細な報告をするよう求められている。
スタッフやキャンパーがてんてこ舞いで準備をしている最中、南寧のキャンパーから衝撃的なニュースがもたらされる、
「今回の事件がマスコミに報道されてる」。
JIAとしてはどれだけ非難されても真摯に受け止める用意ができてる。しかし、お父さんは王珺のことが単なる事故としてマスコミに取り上げられることを嫌っている。それが、なされてしまった。しかも、お父さんの了承を得ることなしに。そして、この報道により、南寧の広西民族大学以外の大学でも学生たちのボランティア活動への管理が強化されつつある。この報道はJIAだけでなく、ハンセン病快復村で活動しているHANDAなどのNGOの活動に影響をもたらすかもしれない。悪く考えると、中国のボランティア活動全体に悪影響をもたらすかもしれない。緊張が否応なく高まる。
しかし、僕らは今夜の会議の準備をしなければならない。

妻・潔珊の出産を控えた僕は、22時30分の広州行きの夜行バスを予約し、20時、お父さんのホテルに小幺、陳躍と共に到着する。
僕らが印刷してファイルした資料にお父さん、お母さん、おじさんふたりは見入る。僕は肩と拳に力を入れて座る。
「好、栄誉と告別式に関してはこれでいいと思う。ただ、見舞金に関しては…」
肩と拳の力が強くなる。
「JIAは企業なんだよね?労災として扱えないかと朝言ったはずだが」。
僕らは他団体の過去の事例から5万元のお見舞金を提示した。

中国でNPO法人登録は法律上制度があっても事実上、不可能だ。そのため、多くの草の根NGOは企業として大陸での法律的身分を確立する。JIAも例外ではない。そのことを説明する。
「JIAは国際NGOで、日本か香港に本部がある大きな団体で、資金的にも余裕があるのではないですか」。

僕らは、JIAは代表は日本人でも、中国の草の根NGOで、資金はすべて財団もしくは個人の寄付によって成り立っていることを話す。お父さんはまたこめかみに人差し指を当てる。小幺と陳躍は実情を一心に話す。僕は終始、肩と拳に力を入れるばかり。
「登録は企業でも、JIAは営利活動は行っていません。JIAの事務所とボランティアには雇用関係もありません」。
その説明にお父さんはJIAの運営状況を理解してくれる。

「ただ、JIAとして、スタッフ、ボランティア、卒業して働いているボランティアを総動員してお見舞金を支払います」。
しかし、お父さんはそのようなやり方でのお見舞金支払いに同意しない。
「本部からの特別な資金がないのであれば、見舞金はいらない。それでも集めてくれるというなら、ただ、王珺の名義でワークキャンプの建設プロジェクトを実施してほしい。見舞金の形でボランティアたちに無理してお金を出させたくないんだ」。
「しかし…」。
「いや、それでいいんだ。これからは安全管理を強化して、より意義のある活動を続けていってほしい」。
肩と拳にさらに力が入る。
(おれたちは励まされているのか…?)
罵られ、殴られるどころか、僕らは逆に励まされている。彼らのために集めるお金も、JIAに寄付するということだ。体が、震える。

お父さんはそこで、ふっと席を立ち、窓の方へ歩いていく。おじさんのひとりが彼のところに行き、小声でささやくのが僕らにも聞こえてくる、
「何言ってるんだ。キチンと見舞金をもらうべきだ」。
「いや、いいんだ。経済的なことは言い出したくない」。
頭が真っ白になっていく。このお父さんは、何を言ってるんだろう?娘を喪いながらも、娘を喪った活動の組織者であるJIAの責任者を目の前にして、このようなことを語る。
(このお父さんのために、尽くしたい。生涯をかけて、尽くしたい。そして、それはおれの義務だ)。
「もう21時半を回ってるぞ。こういうことで行こう。よろしく頼んだよ」。
もう、広州行きのバスターミナルに向かうバスはない。タクシーに乗り込み、ワーキングステーションの下に乗り付けると、国献らが僕の荷物を担いで下まで来てくれる。それを積み込み、それぞれの肩を抱く。天等に王珺と行った大順もいる。なんだか、涙が出そうになる。
(おれは、こいつらと仕事してんだ)。
一種の誇りみたいなものを感じる。

バスターミナルに向かうタクシーの中、潔珊に電話をかける。
「パパ!」
例の、リンの甘い声が耳に飛び込んでくる。
それに、どうしても罪悪感を感じる。

翌8日朝。
瀟太郎はお腹から出てこないで僕を待ってくれていた。
広州ではJIAの2012年度の年度計画をつくるための各地区へのアンケートを送り、JIAの企業登録後に必要な手続きを極度に官僚的な税務署で済ませ、広州国際婦女会とミーティングして夏キャンプへの支援を暫定的に取り付け、共産主義青年団広州市委員会に働きかけて王珺に栄誉照合をもらえるようにし…などの仕事をこなしていると、6月12日に南寧で王珺の告別式が広西民族大学主催で開催されることが決定される。6月11日の正午、また、身重の妻をおいて南寧に戻らなければならない。
さすがの潔珊も驚く、
「瀟太郎が生まれるまで広州にいれるんじゃないの?!」
普段は決して仕事上の文句を言わない潔珊のお母さんは、南寧行きの荷物を準備する僕に言う、
「子供が生まれるってことはとても重大なことなのよ!」
しばし黙ってから、僕はこう言わざるを得ない、
「ある人の子供が亡くなるってことは、それよりも重大なことなんだ」。

僕の留守中はJIAのスタッフの王達が広州のうちにいてくれることになった。
夜中に陣痛が来てタクシーをつかまえられない場合に備えて、JIAバックアップチーム(JIAのOG/OB会)の謝韵(セブン)のだんなさん・阿祥が車を出してくれるように、北京に出張中のバックアップチーム・麦根華(マイケル)がアレンジしてくれる。

6月11日午後16時ごろ、南寧のワーキングステーションに到着する。そこでは着々と告別式の準備が進んでいた。黒に白抜きのJIAのロゴのステッカーが200枚印刷され、お父さん・お母さんに贈る王珺を記念したアルバムが完成し、王珺になじみの深い龍州村と大新村の村人の王珺への涙ながらのメッセージを収録したビデオ、王珺の経歴を記した文書、…。南寧の福利社(JIA南寧委員会のOG/OB会)はすでに寄付集めも開始している。

午後19時には6月7日に事故の報道をした記者がワーキングステーションにやってきた。僕は7日に記事が出た直後、お父さんの了承を得ずに記事を出した記者を電話で冷静に責めた。小幺はあからさまに罵り、電話で記者と喧嘩した。しかし、その後、両者はわかり合い、11日の時点では異常に緊密なチームワークで、王珺に肯定的な記事を出すべく、ふたりは仕事をしている。

午後20時、僕は小幺と記者と3人でお父さんのホテルを訪ねる。まずはJIAがつくった王珺への「優秀ボランティア」の盾を贈る。親族一同がわっとそれを見に集まる。僕と小幺はあまり話さず、ほとんど記者とお父さんとが話す。そこでお父さんはまた繰り返す、
「JIAは安全管理を強化して、引き続き有意義な活動を続けてほしい」。
お母さんは生前の王珺の思い出を語り始める。
「おじいちゃんが亡くなる直前、王珺はおじいちゃんの手を握ってね。毎日おじいちゃんの入院している病院に通ってね」。
笑顔で王珺を語っていたお母さんは突然、ぐっと涙に詰まる。お父さんはまたこめかみに人差し指を立て、
「もう言うな。もう言うな」
と繰り返す。

1時間以上ホテルでお父さんとお母さんの話を聴き、ホテルを離れる。
おじさんふたりがエレベータまで送ってくれる。
「おれはいずれ、王珺が亡くなった村に、王珺が亡くなった場所に行ってみたいと思ってる。ワークキャンプにも参加したい」。

翌6月12日。今日は王珺の告別式だ。朝6時半、僕らは南寧葬儀場でお父さん、お母さんの到着を待つ。ワゴン車のドアが開くと、即、こめかみに人差し指を立てたお父さんが降りてきて、同時にお母さんの高い泣き声が車内から外へ響く。

今日は、王珺を送る日だ。

JIAのステッカーをつけた黒い服の学生たちが続々と到着する。彼らは大順の指揮の下、整然と葬儀場の外に整列していく。400名以上はいる。その他、JIAの協力団体や広西民族大学の学生が100名ほど。
告別式が始まる直前、身の置き場を見失っていた僕は最前列へ引っ張っていかれる。
広西民族大学の先生の厳粛な挨拶で式が始まる。王珺の左側に並ぶ親族からすすり泣きが聞こえる。

そして、お父さんからの挨拶の段となる。
「王珺…」
すすり泣きが号泣に変わっていく。
「王珺は小さいころから優しい子で、高校のときから献血などのボランティア活動を始めていました」。
このあたりからお父さんはひとりで立てなくなり、両脇から抱えられるようにして何とか立ち続け、挨拶を続ける。
最前列の僕は、ただただ、首を垂れ、身体を硬くしてお父さんの挨拶を聴く。
身体がブルブル震える。
「JIAワークキャンプボランティア協会の皆さんに感謝したいと思います」。
お父さんは涙でぼろぼろになった声で、JIAに対して「感謝」という言葉を出す。
(感謝?)
僕は全身を刺されるような感覚を受けてハッとする。
「みなさん、ありがとうございます。広西民族大学、クラスメートの皆さん、そしてJIA、とても感謝しています」。
涙でぐちゃぐちゃになり、ひとりで立つことができないお父さんが「感謝」を繰り返す。一言も、怨嗟の言葉はない。一言たりとも…。
「感謝」
この言葉を聴くたび、僕はいたたまれなくなる。こみ上げるものをこらえる想いが、「グ、グ、グ、…」と音を立て始める。お父さんはまた、JIAに対して「感謝」という。

ここで僕は、ぐちゃぐちゃに泣き出し始める。肩でしゃくり上げながら。そして小珺珺の前に花束を供え、小珺珺の棺に三回お辞儀をし、それを周って親族のところにいく。
「お父さん、僕は、これから一生涯をかけてがんばります。もともとそう想っていましたが、その想いをさらに強くしました」。
お互い肩を抱き合い、涙を流し合う。

掲載:鈴木亮輔

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2011年度JIA会員代表総会(AGM, Annual General Meeting)開催のご案内

ファイル 141-1.pdf

FIWC関東委員会、JIAの代表である原田燎太郎氏から、案内が届きましたのでご紹介いたします。

2011年度JIA会員代表総会(AGM, Annual General Meeting)開催のご案内

日時:2011年8月25日(木)~8月27日(土)

場所:広西壮族自治区南寧市銀林山庄

内容:JIA会員代表総会、JIAワークキャンプ地区委員会報告など

詳しくは: こちらをご覧ください。http://fiwc.jp/blog/data/upfile/141-1.pdf

※本件についてご質問等ございましたら下記までお問い合わせください
(英語もしくは中国語にてお願いいたします)。
家工作営志願者協会(JIA)AGM担当(渉外担当者:陳躍(CHEN Yue))

メール:yue_joyinaction@yahoo.com.cn 

携帯:+86-150-1326-9720

掲載:吉田亮輔

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